過去記事の掲載:ビル師からのメッセージ「問題は”何を見るか”」ではなく”どう見るか”です」(2016年2月)

イースターの朝。マリヤ、ペテロ、ヨハネの三人は空になったイエスの墓の中を見ました。いずれもイエスをよく知る者たちでしたが、見た時の反応は三人三様でした。

マリヤの反応はギリシャ語で「ブレポー」。すなわち、単に目で見た、と書かれています。その場の状況をただ目で見たのです。空になった墓、マリヤが見たのはそれだけでした。

ペテロが中を見た時の様子は別のギリシャ語で表現されています。「セオレオー」、英語の「theory(理屈)」という単語の語源となった言葉です。ペテロは考えます。「こんなことがあるだろうか。イエスはかつて言っていたことを本当に実行したのだろうか」。

ヨハネも同様に、空になった墓の中を見ました。しかしここで使われるギリシャ語は「エイドン」。すなわち心で見て信じたということです。

同じ場面を目撃し、同じようにイエスを知っていた三人はすぐに理解するべきでした。しかし、実際はできませんでした。クリスチャンの私たちも当たり前のことに気づけないことがよくあります。本当に必要なもの…変化を生み出す力…福音を伝え子どもの人生に影響を及ぼす機会といったものに、私たちは目を向けなければなりません。

私たちは毎年イースターの教会学校で復活のメッセージを伝えますが、この学びこそ、この先ずっと続く人生の変化を生み出すのみならず、子どもたちの視点を変える唯一のものです。自分の将来や人生のこと、そして永遠の命とは、実在とは、真実とは、といった子どもたちの物の見方を。

ヨハネのような、「見て、信じた」、そんな物の見方をする人が増えなければなりません! 本当に信じるなら行動し、この真実を共有し、永遠の命が現在の行動次第であることを念頭に置いて、今、動かなければならないからです。

時々思います。あの日街角で私に声をかけてくれた男性には見えていて、私を捨てた実の母に見えていなかったものは何だったのかと。その男性は違う物の見方をしていたのです。
今年のイースター、あなたは何を見ますか?

心を込めて

ビル・ウィルソン