スタッフが見るスラム フィリピン(2021年8月)
先月に続き、貧困地域であるスラムについてお話しします。今回は、ケニアとフィリピンについてです。
《フィリピン》
フィリピンのスラムは、何世代も続いています。 それは、絶望の淵から生まれたのです。生きる手立てやお金もない人々は、手近な材料(プラスチックの防水シート、木片など)をできる限り集めて、雨風をしのぐ小屋を建て始めました。
ゴミ捨て場を漁り、リサイクル可能なものを探して売ることで少しのお金を稼ぐことができています。そうやって、「家」をできる限り自力で修復していきます。
しかし現実には、(不法占拠地域と呼ばれる)スラム街に住む人々は、ほとんど権利を持っていません。その土地は彼らの所有ではないので、いつでも追い出される可能性があります。スラム街の住人を保護する法律はあるものの、当てにはなりません。
スラム街となっている土地の所有者である政府は、彼らに住む場所を提供することになってはいますが、それによって彼らに住む場所が確実に保証されているわけではありません。
スラム街住人の一部はフィリピンの首都であるマニラから来ていますが、ほとんどは、マニラ以外の州から来た人たちです。人々は(何世代も前の人たちも含みます)、マニラにはもっと良い仕事があると思い、マニラに来るための費用を得るために、持ち物を売り払ってやって来ました。
しかし、いざマニラに到着しても、良い仕事に就くことができた人は、ほとんどいませんでした。多くの人は仕事を得ることもできず、ごみ捨て場を漁ってリサイクル業者に買ってもらえそうなものを探すことしかできませでした。ごみを漁っても、かろうじてその日に食べるものを買う程の金額にしかならず、自分の出身地に戻るためのお金など、とうてい稼ぐことができませんでした。
そして、マニラのスラム街で生活する住人同士で結婚をしたり同居をしたりして、子どもを授かっていきます。そのため、故郷に帰ることはますます難しくなっていきます。なぜなら、生まれ故郷に戻っても、そこには何もありませんし、頼る人もいないので、「戻りたくない」と思うからです。
マニラに移ってきた人で、故郷に土地を所有していた人はほとんどおらず、故郷でも雇われの身でした。作物が実る時期は収穫手として雇われて作物や賃金を得ることができましたが、収穫の時期以外になると、生きていくのはやっとのことです。少なくとも、マニラに住んでいればごみを漁ることができ、わずかではあっても毎日食べていくためのお金を得ることができます。
悲しいことに、人々がマニラでスラム街の住人となる別の理由に人身売買があります。
人身売買の組織は、仕事があると言って人々にマニラへ行くための借金をさせます。彼らがマニラに着いた時には、当初紹介された仕事などではなく、売春や、それに似たような仕事をさせられます。そこからなんとか逃げ出したとしても、スラムで生活する他なく、逃げ出さなければ売春をするしかありません。これは、本当に厳しい現実です。
何世代にもわたり、スラムに住む住人たちはそのようにして生きてきました。そして一度スラム街で世代交代が起こると、変化を起こすことはさらに困難になります。例えば、あなたがフィリピンのスラム街である墓地で生まれたとしましょう。
あなたの母親は花を売って時々お金を稼ぎ、父親はゴミ置き場からプラスチックや金属の破片を集めて生計を立てています。両親の1日の稼ぎを合わせると、3ドル程度です。そして、あなたには3人の兄弟がいます。学校の授業料は無料ですが、制服や学用品は無料ではありません。そしてもちろん、家族6人が毎日食べていくためのお金が必要です。
家族が食べる1日分のお米1kgが約1ドル、3食分のイワシの缶詰に約2ドルかかります。そうすると、毎日の稼ぎの3ドルを、全て食べるために使い切ることになります。貯めておくお金などありません。翌日には、同じことの繰り返しです。
たとえ両親が学校教育の価値を分かっていたとしても(たいてい、スラム街のほとんどの親は幼少期に教育を受けていないため学校教育の価値が分かりません)、家族を食べさせるか、学校に通わせるかの選択を迫られます。選択の余地などありません。また、スラム街で蔓延する寄生虫が子どもの胃に感染し、すぐに病院に行く必要があっても、親はこの2つの選択を迫られます。
スラム街に住む子どもが高校を卒業することなど、ほとんど奇跡だということがおわかりでしょう。