フィリピン視察ツアー(2019年春)のご感想③(2019年8月)

今年の4月4日(木)~7日(日)に開催しましたメトロ・フィリピンの現地視察ツアーにご参加くださった方々のご感想をお届けしています。

三宅由希子様

一番の印象は
この度初めてフィリピン視察ツアーに参加させて頂き、一番に感じたことは、我々とは違う文化で生きている子供たちでも、イエスさまが生きて働いておられる世界では、言葉・形が違えども、神様への信仰と祈りは同じである、ということでした。
何も知らずにその場に生まれ育ち、イエスさまの救いがなければきっと多くの幼い命が失われたり、成長しながらも悪の世界へと引き込まれたりすることが頻繁に起こるような場所であると感じました。

1日目はMetroのオフィスへ伺い、Hanna姉よりMetroの活動がどういったものか、注意事項などの説明を受け、そして、ある男の子の証しを聞きました。
その男の子が一度は教会学校へ来るのを辞め悪の世界へと入ったのですが、イエスさまの導きにより悪の世界より救い出され、今は教会学校で小さな子供を指導する立場になっているそうです。
そんな1日目を終えたのですが、その時はまだ現場を想像することすらできませんでした。

2日目になり初めて、一緒にツアーに参加された方のスポンサーチャイルドに会いに行きました。
その子のお家に行くと、周りには親戚家族が暮らしていて、大人数で1つの小さな家に住んでいる様子でした。
とてもシャイな感じの女の子でした。学校で表彰されることが多いみたいで表彰状がお家に沢山飾られていました。
そんな優等生の彼女からは、住んでいる場所は小さく大人数で暮らしていると言ってもスラムのイメージはあまり強くは入ってきませんでした。

墓地での衝撃的な光景
さて、2日目にはもう一つ、墓地で暮らしている子供たちのためのSide Walk Sunday School がありました。
墓地で暮らしていると聞いた時は見学に行って倒れないだろうかと、正直少し不安でした。
しかしそこに行くと、子供たちはもちろん、住んでいる人々もとても明るく、墓地にいるとは思えない雰囲気で暮らしていました。

私はとても自分の体の変化に驚き、なぜめまいもなく墓地の中を元気に歩き回れたのか不思議を覚えました。
後で牧師先生にそのことを伝えると、それはキリスト教の「死」の捉え方が他のものとは異なり、死とは天国にいらっしゃるイエスさまの元へ逝き、そこで永遠の命へ続くもので、死の後のこの世への執着心や未練のようなものがない、悲しいものではないためではないかと教えて頂きました。

墓地の奥へ進むと共同墓地があり、骸骨がそこら中に袋に入れて捨てられていました。
聞くと、そこで住んでいる子供たちは私たちがボールで遊ぶ感覚で頭蓋骨が遊び道具の一つだと伺いました。
私たちはその話を聞いた時、衝撃を受けました。ただ、それはそこで暮らす人々の文化でありました。

スラムの生活を体感
3日目は Side Walk Sunday School 2カ所を訪れました。
一つ目の場所は、線路沿いのスラムのような場所で、所狭しとたくさんの家族が住んでおり、迷路のように家屋が並んでいる中を「Side Walk Sunday School」と呼びかけながら、子供達を誘うために家屋の立ち並ぶ中を歩き回りました。

Sunday Schoolでは1日目で見学して学んだ歌やダンスをしながら、お行儀良く参加している子供達にはキャンディをあげました。
二つ目の場所はスモーキーマウンテンと呼ばれるゴミの山の横に建てられた大きな建物が並ぶプロジェクトハウスでした。

そのビルの中に入って行き、また「Side Walk Sunday School!」と元気よく子供達を呼びに行くのですが、ビルの中は鶏や猫や犬、また尿の臭いなどが入り混じった日本では嗅いだことのないような臭いに包まれていました。

ただ不思議なことに、強い臭いを感じたのは初めだけで、慣れると全く臭いが気にならなくなっていました。
ここに住んでいる人々も生まれた時からこの生活に馴れ親しみ、きっとそこでの暮らしが普通になっているのだと知りました。

自分を見つめ直す時を与えられ
そこのSide Walk Sunday School で私がとても気になった子供達がいました。二人の小さな姉妹でした。
その姉妹は周りの子供達より服も少し薄汚れた感じで、お姉さんの方が一生懸命に妹をかばいながら生きている光景でした。
妹の方がより天真爛漫な感じで全く落ち着きがなく、二人は走り回っていました。
私が腰を下ろした次の瞬間、その姉妹がピタッと私の両脇に寄り添ってきました。
私が、みんなのところに行って参加する様に促しても首を振って私の側から離れませんでした。
きっと私が座るとこの子達も一緒に座るんだろうと思い、みんながいるブルーシートの上に、靴を脱いで足を組んだ胡座をかくような、フィリピンで言ういわゆる正座のように座りました。私がやって見せると、その姉妹も頑張って参加していました。その時、どこで暮らそうとどんな生活をしてようと、小さな子供達が生きるには愛着というものが必要だと実感しました。
私はその姉妹二人とものスポンサーになってあげられれば、と深く心に感じました。

またもう一人の小さな男の子がいました。
その男の子は暑かったからなのか、履くのが嫌なのか、はたまた履くパンツやズボンがなかったのか、下半身素っ裸で走り回っていました。

あまりの見慣れない光景に私は戸惑いつつ、軽く頭を撫でて愛着を示すことしかできませんでした。
その夜のミーティングで万代牧師が選ばれた聖書の箇所に、

「『わたしが裸の時に服を与え、病気の時や、牢獄にいた時には見舞ってもくれました。』するとこれらの正しい人たちは答えるでしょう。『王様。私たちがいったいいつ、あなたに食べ物を差し上げたり、水を飲ませたりしたでしょうか。また、いったいいつ、あなたをお泊めしたり、服を差し上げたり、見舞いに行ったりしたでしょうか。』『あなたが、これらの困っている一番小さい人たちに親切にしたのは、わたしにしたのと同じなのです。』」
(マタイ25:36-40を参照)

とありました。私の胸中は自分の偽善者加減に恥を覚えました。
どうして私は見ない振りをしたんだろう?
どうして小さな男の子に服を着せてあげられなかったんだろう?
私は自分の浅はかさに戸惑いました。

子供たちに本当に必要なものは
フィリピン視察旅行で学んだことは、大きな文化の違いでした。
しかし、フィリピンの人々にも日本人の様に尊敬を表すご挨拶の仕方があったり、行儀よく座る作法がありました。
そして何より、お祈りの仕方は世界中同じで、みんな熱心に目を瞑り手を合わせたり、手を神に手向けてイエスさまからの恵みを受け取っていました。

ただ生まれ住む場所が異なり、我々とは違う言葉を話し、違う食べ物を食し、私たちの「普通」では考えられない様な環境で暮らしていたのです。

みんな笑顔がとても素敵な子供たちでした。どこで生まれ育とうと子供たちには皆、親からの愛着が必要だということでした。

幼児期に親の愛着を受けずに育った子供は、成長過程で迷いや困難があった時に正しい道を見つけられず自分を見失ってしまいます。
また親からの間違った愛着を受けても同じことが起こり得ます。

では、どうすれば小さな子供たちを守れるのか?
私たちには正しい指導者が必要です。
主イエス・キリストを礼拝することにより私たちは正しい知識や知恵を得、子供たちを正しい道へと導くことができます。
聖書を読み聞かせ、イエスさまからの無限の愛を得ることができます。
また主イエス・キリストの御名によってお祈りすることで、私たちの思いや悩みを主が解決してくださいます。
また祈り合うことで、困難から脱出することができます。
人の力や業では救われることは不可能です。しかしどんなに育った環境が違おうと、どこの国の文化背景を持っていても、我々人類はたった一人のお方、主イエス・キリストによって救われるのです。

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